ソフトウェアの複雑性は本質的な性質であって偶有的なものではない
「過剰と破壊の経済学-「ムーアの法則」で何が変わるのか」を気軽に読んでいたら、ブルックスの人月の神話の一節が書かれていて、今頃になって、すごく腑に落ちたのでメモ。
ブルックスの人月の神話の文章のうち、自分が理解できたことを、ラフなメモ書き。
以下は書きかけ。
【参考】
第0回:人月の神話とはなんなのか?(解説編)|本気で読み解く”人月の神話” | GiXo Ltd.
第2回:銀の弾は無いけど、”銃”はあるよね|本気で読み解く”人月の神話”(第16章) | GiXo Ltd.
ソフトウェア開発とは、現実世界の複雑さをプログラムコードの難しさに置き換える作業だ - セカイノカタチ
ソフトウェア開発でよく言われる「銀の弾丸など無い」とはどういう意味なのか本を読んでみた。 - 感謝のプログラミング 10000時間
【1】ソフトウェアの複雑性は本質的な性質であって偶有的なものではない。
「過剰と破壊の経済学-「ムーアの法則」で何が変わるのか」の内容自体は10年以上前のWebやIT業界の話が多く、内容も古くなっているので、新たな知見が得られるという感覚はしない。
しかし、「過剰と破壊の経済学-「ムーアの法則」で何が変わるのか」の中に、「ソフトウェアの複雑性は本質的な性質であって偶有的なものではない」という言葉があって、すごくしびれた。
(引用開始)
ソフトウェアの複雑性は本質的な性質であって偶有的なものではない。
したがって、複雑性を取り去ったソフトウェアの実体の記述は、しばしばその本質も取り去ることになる。
数学や物理学は、複雑な現象を単純化したモデルを構成し、そのモデルからある性質を引き出し、実験的にその性質を証明することで、3世紀にわたって偉大な進歩を遂げた。
この方法でうまくいったのは、モデルで無視された複雑性が現象の本質的な性質ではなかったからだ。
複雑性が本質である場合には、この方法は使えない。
(引用終了)
上記の内容は、ブルックスの「人月の神話」の一節そのまま。
なぜ自分がすごく衝撃を受けたのか、考えてみると、ソフトウェア開発の本質に触れているものだから。
たぶん、僕の心のなかにある、ソフトウェアに対する楽しさだけでなく、ソフトウェアへの憎しみというか、なぜこう思い通りにソフトウェア開発をコントロール出来ないのか、という腹立たしさに触れている気がしたから。
「偶有的」という言葉も引っかかる。
この言葉は、古代ギリシャのアリストテレスの哲学から引用したものらしい。
(引用開始)
アリストテレスに従って、難しさを本質的なものと偶有的なものに分けて考えてみよう。
ここで、本質的な複雑さとは、ソフトウェアの性質に固有な困難のことであり、偶有的難しさとは、目下の生産にはつきまとうが本来備わっているものではない困難のことである。
(引用終了)
自然科学、特に数学や物理学では、できるだけ単純なモデルを作り、そこから演繹される性質や定理を証明することで、自然現象を多面的に分析しようとする。
複雑なものを複雑なまま捉えるのではなく、理想的な単純なモデルに純粋化して、人間の思考に耐えられるレベルにして、数多くの観点で徹底的に分析するのが自然科学のやり方。
シンプルなモデルを「徹底的に」分析し尽くして、全ての特徴を洗い出し、全てを因果関係や演繹でまとめ上げて一つの理論体系にするのが自然科学のやり方。
すると、シンプルなモデルをどのように事前設定するか、どのパラメータを重視して選択しておくか、というのが重要になる。
その部分が、科学者の腕の見せ所。
たとえば、物理学では、理想気体みたいに、現実から離れるけれど、シンプルなモデルを設定することで、計算や実験を扱いやすくするモデル作りは一般的だ。
熱力学、相対性理論、量子力学など、色んな分野の物理学でもその手法を用いている。
数学でも、一流の数学者は、自分で理論を打ち立てたい時、最も組合せの少ない公理や公準を直感的に選んで、そこから矛盾が生じないように設定しておく。
そこから、「誰々の定理」のような重要な結果を導き出す。
一流の数学者がすごいのは、最も組合せの少ない公理を直感的に把握できること、そして、重要な定理を導く時に、ロジックの穴になりそうな難しい場所を事前に察知して、それをくぐり抜けるために、あらかじめ「誰々の補題」みたいな補助的な公式を用意しておくのが上手い点。
数学や物理は背景にある思想を知らなければ理解できない: プログラマの思索
このやり方がすごく成果を上げているので、人文科学や社会科学でもそのやり方を真似ているように思える。
特に、経済学は典型的だろう。
マクロ経済学やミクロ経済学みたいに、人間は合理的に行動する、とか、市場の価格は恣意的な手段で決めても長続きせず、神の手(つまりは市場原理)で決まる、みたいに、現実とかけ離れた仮定をおいて、数多くの経済モデルを作り、そこから重要な経済学の定理を導き出す。
単純な経済モデルから得られた経済学の定理で現実に通用する場面が過去にあったから、経済のグローバル化が世間に言われ始めてから、世の中の経済事象は、市場原理で決まる、いや決めるべきだ、みたいな論調が多い気がする。
「推計学のすすめ」「経済数学の直観的方法~確率統計編」の感想: プログラマの思索
しかし、ブルックスの「人月の神話」では、ソフトウェアにはそのやり方が通用しない、という指摘をしている。
「ソフトウェアの複雑性は本質的な性質であって偶有的なものではない」からだ。
つまり、複雑性を排除したソフトウェアは、ソフトウェアの本質を意味しないからだ。
【2】ソフトウェアの本質的な複雑さと、偶有的な複雑さの違いは何か?
ソフトウェアの本質的な複雑さは、リーマンの法則そのものを指すと思う。
リーマンの法則~ソフトウェアもエントロピー増大の法則を避けられない: プログラマの思索
リーマンの第1法則
使われるシステムは変化する。
リーマンの第2法則
進化するシステムは複雑性を減らす取り組みをしない限り、システムの複雑性が増す。
リーマンの第3法則
システムの進化はフィードバックプロセスによって決まる。
(引用開始)
レーマンとベラディは、大規模なオペレーティングシステムのリリースについて、継続してその変遷を研究してきた。
そこで分かったことは、モジュールの総数はリリース番号とともに線形に増加するのに対し、影響を受けるモジュールの数はリリース番号に対し指数的に増加するということだ。
(中略)
システムプログラムの作成は、エントロピーを減らす仮定だから、本来は準安定なものである。
他方、プログラムメンテナンスはエントロピーが増加する過程であり、どんなに器用に行なっても、できるのはシステムが修正不能な陳腐化へと沈んでいくのを遅らせることだけである。
(引用終了)
(引用開始)
ソフトウェア製品開発に関する古典的問題の多くは、その本質的な複雑性と、ソフトウェアの大きさに従ってその複雑性が非線形に増大することに由来している。
(引用終了)
この文章を読んで思い出すのは、ケント・ベックがXPを生み出した経緯のことだ。
ケント・ベックは、ソフトウェア工学の授業で習った、リリース総数が増大するにつれてソフトウェアの複雑度や変更コストが増大していく経験則に対して、異議を唱えた。
時間が進むに連れて、この曲線を頭打ちにできるような開発プロセスはないのか、と。
- eXtreme Programmingの魅力を探る オブジェクト倶楽部
(引用開始)
「変化ヲ抱擁セヨ」
この呪文めいた言葉は,Kent Beck による本の副題として掲げられている. 時間を横軸に,ソフトウェアの変更にかかるコストを縦軸にプロットする.
この「時間-変更コスト」曲線は極端な右上がりになると信じられて来た(図左).
すなわち,要求分析,設計,実装,テスト,保守,と時間が進むにつれ, 変更にかかるコストが増大するというのだ.
現在までのソフトウェア開発プロセスは,この仮定上の議論が多数 だったのである.
XP はこの曲線を平坦にできるのではないか, また,そうできたとしたら,全く違った方針でプロジェクトに立ち 向かえるのではないか,という挑戦をしている(図右)
(引用終了)
こういう素朴な問題意識はすごく重要だと思う。
XPがその理想を本当に実現したのかどうか、は検証がいると思うが、そういう背景を元にアジャイル開発のプラクティスが生まれたことは、アジャイル開発が従来のソフトウェア工学と対立しがちに見える傾向を示唆しているように思える。
ちなみに、上記の第1版の「XPエクストリーム・プログラミング入門―ソフトウェア開発の究極の手法」に、上記の「従来のソフトウェア工学が提唱しているソフトウェア複雑性へのXPの果敢な挑戦」の文章と図はあるのに、第2版の「エクストリームプログラミング」から削られていることだ。
とても残念。
この部分がXPにとって一番重要な主張なのに。
【3】コードクローンと再利用性。
(引用開始)
ソフトウェア実体の本質とは、データセットやデータ項目間の関係、アルゴリズムや機能呼び出しなどが組み合わさったコンセプトで構成されたものである。
この本質は、同じ概念構造体が多くの異なる表現で表されるという点で抽象的である。
それにもかかわらず、非常に正確で十分に詳細なものである。
(引用終了)
コードクローンとは、同一アルゴリズムを各プログラマが別々の実装したプログラムのことだ。
上記は、ソフトウェアの複雑性が増大しがちな理由の一つは、コードクローンが大量に発生しがちである、と言う点を示唆していると思う。
ソフトウェア工学の論文を見ていると、コードクローンのメトリクス採取の記事が割と多い。
その理由は、コードクローンを減らす方がソフトウェアの複雑性が減るので、良い、という主張が隠れているのではないか。
では、なぜコードクローンは良くないのか?
(引用開始)
ソフトウェア実体は、どの2つの部分をとっても似ることがないので、大きさの割にはおそらく他のどの人工構造物よりも複雑なものだ。
似通っている部分があれば、2つの類似部分を1つにする。
この点において、ソフトウェアシステムは、重複要素(部品)が豊富なコンピュータやビルあるいは自動車などとは全く異なっている。
(引用終了)
その理由は、ソフトウェアの再利用が進まないからだ。
たとえば、自動車やパソコン、スマートフォンのような工業製品は、再利用可能な汎用部品を組み立てる手法と大量生産することを組合せることで、規模の経済を生かし、経験曲線効果を生かして、1個当りの製造コストを劇的に減らす。
しかし、この「規模の経済」「経験曲線効果」というコストメリットを享受しうる生産手法がソフトウェア開発には全くといっていいほど通用しない。
ソフトウェアを部品化して、スマートフォンみたいに部品を組み立てるように製造したい、と考えて、CORBAとかEJBのようなコンポーネント駆動開発、製品ファミリー群の製品開発手法であるソフトウェアプロダクトラインとか色々考えられたけれど、どれも実用的ではない。
ソフトウェアプロダクトラインが解決しようとするもの~品質と再利用: プログラマの思索
だから、多額の資金を設備投資に投入して、最新の機械で汎用部品を組合せて大量生産する生産手法がソフトウェア開発には馴染まない。
ソフトウェア開発は徹頭徹尾、経験曲線効果すらも有効でない労働集約的な生産手法に似ているように思える。
【4】ソフトウェアの本質的な複雑性とは、同調性、可変性、不可視性。
【4-1】同調性は、リーマンの言う組み込まれた(Embeded)プログラム、を連想する。
(引用開始)
支配しなければならない複雑性の多くは気まぐれによるものだ。
インターフェイスを人間の社会制度やシステムに適合させるべく、いわば是非もなくそれらによって強制されているからである。
(引用終了)
最近、業務システムとかERPに僕自身が少し興味をなくしているのは、システム化したい業務そのものが元々複雑過ぎて、それを整理しようと言うよりも、現実の業務をいかに忠実にシステム化するかに注力する案件の方が多いからだ。
元々の業務が、日本的な複雑な組織体制を元に作られていれば、複雑なのは当たり前であり、それを忠実にシステム化するなら、複雑怪奇なままだ。
日本では、ERPをBPRとして捉えるよりも、自分達の業務中心に考えすぎているために、システムも複雑怪奇になりやすいような気がしている。
【4-2】可変性は、ソフトウェア品質の移植性や保守性を連想する。
アジャイル開発が重視する品質特性~保守性と移植性: プログラマの思索
(引用開始)
ソフトウェア実体は、つねに変更という圧力にさらされている。
(引用終了)
XPの言う「変化を抱擁せよ」と同じ。
ソフトウェアにとって、VerUpは宿命であり、常に変化が内在している。
ソフトウェアは変化しない固体として存在し得ない。
(引用開始)
純粋な思考の産物であってきわめて融通性に富んでいるので、ソフトウェアがより簡単に変更できるということもある。
ビルも現実には変更されるものだが、だれもが了解しているように、変更コストの高さが思いつきで変更しようとする者の気をくじく働きをしている。
(引用終了)
ソフトウェアに、仕様変更という名の保守はつきものだ。
それは簡単にできるように思えるから、簡単にソフトウェアに手を入れて、潜在バクを埋め込んでしまう。
ソフトウェア品質特性のうちの保守性を連想させる。
(引用開始)
大当たりしたソフトウェアはまずたいてい、すべて変更される。
あるソフトウェア製品が役立つと分かると、人々はもともと処理対象としていた領域ぎりぎりもしくはその領域を越えるような新しい使い方を試してみようとする。
主として、拡張機能のために変更して欲しいという圧力は、基本機能が気に入っていて新しい使い方を考えだす利用者から出される。
(引用終了)
これは、たとえば、Redmineが当初のバグ管理の使い方から、タスク管理、そして、アジャイル開発やWF型開発、さらには、事務処理ワークフロー、ハードウェア資産管理システムへ使い道がどんどん広がっていった事例を連想させる。
本来想定しなかった使い方が一般的になってしまい、その使い方をさらに使いやすくしたり、機能改善することで、ソフトウェアの複雑性がどんどん膨張する。
あらゆるソフトウェアは機能追加という変化にさらされている。
(引用開始)
大当たりしたソフトウェアは最初に書かれた対象である機械機器の通常の寿命よりも長く使用され続ける。
要するに、ソフトウェア製品はアプリケーションや利用者、慣習および機械機器といった文化的マトリックスにすっかりはめこまれているのだ。
そしてそれらは絶えず変化し続けるものであり、その変化がソフトウェア製品に容赦なく変更を強制するのである。
(引用終了)
たとえば、OSやDBやミドルウェアのバージョンアップとか。
あるいは、サーバー本体のリプレースとか。
たとえば、WindowsXP廃棄対応、WindowsServerのリプレース、OracleのVerUp、RailsのVerUpとか、iOSやAndroidOSのVerUpとか、色々思い出す。
つまり、ソフトウェア品質特性の移植性を連想させる。
こういうミドルウェアやOSのVerUpに伴うプログラム変更作業は、とてもしんどいものだ、と開発者なら誰でも知っている。
こういうつまらない開発基盤のVerUp作業は、ソフトウェアの外にある外部環境の変化によって生じるものであり、避けることは出来ない。
【4-3】不可視性は、ソフトウェア設計の難しさを連想する。
(引用開始)
ソフトウェアの構造を制限したり単純化したりすることは進歩したにもかかわらず、その構造は本質的に視覚化できないままになっている。
そのため強力な概念上のツールを作る意欲を阻害している。
その欠落は1人の人間の頭の中のデザインプロセスを妨げるばかりでなく、複数の人間の間でのコミュニケーションもひどく妨害する。
(引用終了)
UMLやDOAは、ソフトウェア構造を視覚化する問題を解決しようと試みていた。
SySMLもその流れだろう。
複雑性をコントロールするための設計技法は、歴史上いくつか考えれてきた。
たとえば、Nティア設計。
つまり、レイヤ化。
another level of indirection
「もう一段の間接参照」を導入すると、コンピュータのほとんどの問題は解決できる。
NFuji's Café: 「Beautiful Code」を読む(中)
ポインタを制する者はプログラミングを制する: プログラマの思索
MVCモデル、通信プロトコルの7層モデルもそういう考え方だろう。
他に、渡部幸三さんの観点でのDOAでは、業務・機能・データの3層構造の業務システムにおいて、業務レイヤとデータモデルのレイヤに複雑性を押しこんで、機能レイヤは複雑性をできるだけ減らす設計が良い、と提唱していた。
すなわち、機能レイヤはまさにプログラミングレベルなので、その部分の複雑性はできるだけ減らして保守性を高めようとする考え方。
つまり、複雑性というエントロピーは一定で変わらないと仮定した場合、人が携わる業務レイヤと、データモデルのレイヤに複雑性を落としこんで、複雑性をコントロールしようとするわけだ。
だが、これらの手法で、ソフトウェア本来の複雑性が本質的に解決されたのか、と問うてみると、正直分からない。
【5】一方、ソフトウェアの偶有的な複雑さは個別撃破している。
「高水準言語」は、たとえば、VBよりもRuby。
たとえば、VBはListやHashなどの基本ライブラリのAPIが非常に不足していて使いにくい。
たとえば、Rubyなら、そういう低レベルなライブラリは非常にAPIが揃っていて、VBよりも1行で書ける。
つまり、複雑性を軽減している。
「タイムシェアリング」は、たとえば、コンパイラ言語よりもインタプリタ言語、継続的ビルド管理、構成管理を指すのかな。
(引用開始)
考えていた内容をすっかりというわけではないが些細な点でどうしても忘れてしまう。
(引用終了)
この部分は、まさにソース管理、構成管理を連想させる。
たとえば、CVS、Subversion、Gitに至るまでの構成管理ツールの歴史を振り返れば、ソフトウェア開発プロセスにおけるブランチ管理、マージなどの作業の複雑性は軽減されている。
「統一されたプログラミング環境」はたとえば、VisualStudioやEclipse、IntelliJとか。
つまり、ソフトウェアを開発する作業そのものが生じる複雑性は、今までの歴史で生み出された技術によって、多少は軽減されてきた。
しかし、だからと言って、ソフトウェアの本質的な複雑性を攻略できたわけではない。
あくまでも、以前よりも大きい複雑なソフトウェアをコントロールできるようになった、というだけだ。
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